グイノ神父の説教

 

2021年 B 年

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   年間第13主日  B年  2021627    グイノ・ジェラール神父

    知恵の書 1,13-152,23-24   2コリント6,79,13-15  マルコ 5,21-43

 今日、イエスは二人の人物と出会います。一人は死の淵から自分の子どもを救いたい男であり、もう一人は癒されない病気から解放されたい女です。イエスはこの二人を彼に対して持っている信頼から信仰へと導きます。

 自分の病気のせいで女は不潔な者とみなされて、宗教的、社会的、夫婦の生活から完全にのけ者にされていました。そのような疎外された環境の中で彼女はイエスに触れるために密かに群衆の中に入りました。ご自分から力が出たと感じたイエスは彼女に「あなたは癒された」ではなく「あなたは救われた」と言いました。つまり「あなたは普通の生活に戻れるでしょう。あなたはもう一度神に向って祈ることや会堂で教えを受けることやご主人とあなたの友だちとの関係を立て直すことができます」と言ったのです。イエスは自分に対する彼女の信頼を「信仰の行い」へと変化させました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

 会堂長のヤイロは、イエスのうちに希望を置いていました。少しでも早く娘が救われるように望んでいますが、イエスはゆっくりと今病気から癒されたばかりの婦人と話しています。結局、娘が死んだと言う知らせを聞いたヤイロは絶望しました。しかし、イエスの言葉が彼を力づけます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長にイエスは勧めます。そして、待たずにイエスは娘に命の賜物を与えます。寝ている人を起こすように、イエスは子どもの手を取って、彼女を目覚めさせ、起こします。イエスはヤイロの信頼を「信仰の行い」へと変化させました。

 今日の福音の話は「諦めないこと」や「落胆しないこと」を教えています。不幸や病気や死に直面しても私たちは決して「仕方がない、何も出来ない、打つ手立てが無い」などと言ってはいけません。自分の信仰が弱いと思っているなら、待たずにイエスに対する揺るぎない信頼を示すことが必要です。また、すべての人間の可能性を試して、他に手立てがなくなってぎりぎりになってからイエスの助けを願うことをしてはいけません。「信仰の内に目覚めること」とは、不幸や病気や試練が現れる時には、すぐイエスを捜し求めることを意味していますから。いつも、至る所で、すべてのよい状況や悪い状況においてもすべての出来事を通してイエスを捜し求めることを信仰が教えているからです。

 知恵の書が「神は死を造られたわけではなく」また「私たちが苦しむことを見て決して喜びません」と私たちに思い起こさせます。聖パウロが「主の寛大さの恵み」について語る理由は、それが私たちの心を以前より大きく開くことができるからです。イエスはすべての人に与えられている「命の泉」です。約束通り、イエスはこの命を豊かに与えます(参照:ヨハネ10,10)。今日の福音の終わりに、イエスは少女に食べ物を与えるようにと願った時、ご自分が命を与え、命を養い、命を強める神であることを啓示しました。イエスは人の命のあらゆる面を大切にします。この命は身体的、精神的、霊的な命です。「命の主」であるイエスは、「生きている人々」と「永遠に生きたい人々」の神です。キリストの復活によって私たちが神の命に生かされている者であると同時に命の証人となりました。

 今日のミサ祭儀を通して、私たちは命を与えるキリストの御体をいただくでしょう。そうすれば、イエスが私たちの信仰で溢れさせ、そして、自分の内にある病気や罪や悪のすべての負の泉を枯らして、癒しえくださいます。ですから詩編30の言葉を借りて神に大いに感謝しましょう。「私の神、主よ、叫び求めるわたしをあなたはいやしてくださいました」(参照:詩編30,3)と。神が私たちを皆、信頼から真の信仰にまで引き寄せますように。アーメン。

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     年間第14主日  B年  202174     グイノ・ジェラール神父

           エゼキエル2,2-5     2コリント12,7-10   マルコ6,1-6

 預言者エゼキエルは、自分が必ず人々の反抗を受けることや誰も自分の話に耳を傾けないことをよく知っています。聖パウロは、自分の使命が「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり」の状態で満たされていることをよく知っています。ご自分の故郷の人々の無理解を受け、福音宣教の失敗を味わったイエスは故郷で何一つ奇跡を行うことができませんでした。私たちがエゼキエルやパウロやイエスと同様に、謙遜に信頼の内に自分たちの失敗を受け止めることができるように、今日の典礼は失敗に終わった三人(預言者エゼキエル、聖パウロ、イエス)の体験を知らせました。この理由と目的は「私たちが弱い時にこそ強いから」です。確かに、イエスの「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ので、私たちを強めます。

 
自分の故郷でイエスは落胆しました。ナザレの人々は、イエスについて自分たちが知っている事と違うことを受け入れませんでした。彼らはイエスをよく知っていると思い込んでいます。イエスはただ「大工であり、マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟です。また彼の姉妹たちはここに住んでいる」とナザレの人々は信じていました。しかしイエスは全く違う人です。ナザレの人々はイエスの話を聞いた後には自分たちの考え方を正すはずでした。「よく知っていたこのイエスはどうしてそんなに違うでしょうか」と。しかし、彼らは自分たちが思い込んでいる確信にかたくなになり、イエスを批判します。この人々の態度を見たイエスは驚き、村の人々には何一つ奇跡を行わずに、自分も自分の教えも歓迎される付近の村へ行きました。

 もしかすると、私たちもイエスをよく知っていると思い込んでいるかも分かりません。しかしイエスと共に私たちはキリストについてまだ発見していないことがたくさん残っています。イエスは遙かに私たちを超えている「愛と慈しみの神秘」です。この神秘を悟るには、永遠の時があっても足りないでしょう。愛するとは「相手の心の内に絶えず発見し続ける大海を仰ぎ見ることだ」と言われています。まして、私たちのために死んでくださったイエスについて何を言えるでしょう。確かことは、信じる私たちが絶えずイエスと彼の教えを再発見するように召されているということです


 ですから考えましょう。確かに洗礼を受けた私たちはイエスの兄弟姉妹、家族、相続人、父なる神の国の者となりました。しかしイエスを個人的に十分に知っているでしょうか。イエスが私たちの内に、また私たちのために実現することについてハッと驚く能力をまだ持っているでしょうか。毎日曜日にイエスが語る教えを新しい心で歓迎ることが出来るのでしょうか。本当にイエスと出会いたい気持ちを育てながら、皆と一緒に教会の中でイエスを囲むことが私たちを幸せにしているでしょうか。

 聖ヨハネの福音書の最初のページに彼は次のように書きました。イエスは「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えました」(参照:ヨハネ1,11-12)と。ですから私たちの信仰がイエスをもっともっと熱心に知る望みとなるように。そして私たちがイエスに従って、彼と共に愛の完成にまで辿り着くことができますように。アーメン。

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      年間第15主日  B年  2021711日  グイノ・ジェラール神父

          アモス7,12-15      エフェソ1,3-14     マルコ6,7-13

 皆様は覚えていると思いますが、先週の日曜日の福音は故郷のナザレで人々に歓迎されなかったイエスが受けた失敗を述べていました。イエスはこれ以後もう二度と故郷に戻りませんでした。この時以後、イエスは色々な他の場所で自分の救いのメッセージを宣言しようと決めました。同時に、イスラエルの民の宗教指導者や律法学者を真似ないように、イエスは会堂では教えないことにしました。結局イエスは旧約聖書の昔の預言者たちのように巡回する宣教のやり方を選びます。律法学者たちや宗教の指導者たちは、自分の家で人々や弟子になりたい人を迎え入れ教えました。一方、イエスは人々の中に入り彼らを迎えに行きます。そしてご自分の弟子たちを周りの村や町に送り込むという新しい宣教の方を弟子たちに教えました。

 預言者アモスも、巡回する宣教師でした。旧約聖書の預言者たちは度々民の指導者たちの反抗や暴力を受けていました。彼らは自分を守りながら、出来るだけ大勢の人々に神のメッセージを伝えるために、あちこちへ移動していました。預言者アモスも邪魔者とされ追い出されました。しかし、アモスはその不当な状態を素直に受けました。なぜなら、彼の使命はすべての人に神からあずかった預言を知らせることだからです。「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と、確かに、神はアモスに言われました。


 イエスの宣教のやり方も昔の預言者たちのように巡回し、村から村へ移動しました。この宣教のやり方はイエスが神に遣わされた者であり、そして彼が述べるメッセージはイスラエルの民のすべての人に与えられている事実を明らかに示します。十二人の弟子たちを二人ずつ組にして隣の村へ遣わす時に、彼らが自由自在に動けるように、イエスは彼らにとても役に立つ勧めを与えました。邪魔な荷物は要りません。気軽に移動することが必要です。効果的な宣教を目指して、必要なら弟子たちすぐ他の所へ出発させました。マルコの福音は、弟子たちの最初の宣教の活動がとても良かったと述べています。またマルコはこの出来事を大切にして、今まで「十二人」と言われたイエスの弟子たちに「使徒たち」という名を使うようにしました。

 イエスは十二人を遣わすとともに、彼らに「汚れた霊に対する権能を授けました。言い換えれば、悪のあらゆる面と戦い、それに打ち勝つためにイエスは弟子たちにご自分の救いの力を与えました。同時に人々が彼らのメッセージを受け、癒されて元気になり回心できるように、イエスは弟子たちに平和の賜物も与えました。

 先ほどの第二朗読で聞いた 聖パウロの「エフェソ教会への手紙」の個所をもう一度ゆっくり読めば、私たち一人ひとりに「悪のあらゆる力に対する権能」がイエスによって与えられていることを簡単に理解するでしょう。平和と神の慰めの使いとして、イエスは私たちを遣わしています。確かにキリストの御体と御血をいただく度に私たちは救い、癒し、聖霊の力を受けています。ですから神に感謝したいと思います。聖霊の力によって住む場所の周りの世界を、信仰の証しによってこの世の世界を美しくしながら、救いの恵みをまき散らしましょう。アーメン。

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     年間第16主日  B年 2021718   グイノ・ジェラール神父

         エレミヤ23,1-6    エフェソ2,13-18    マルコ6,30-34

 ご自分と弟子たちを走って追いかけて来た群衆を見てイエスは深い憐れみを感じました。なぜなら、集まって来た大勢の人が「飼い主のいない羊のよう」に見えたからです。預言者エレミヤの時代に、すでにイスラエルの民は「飼い主のいない羊のような有様」に置かれていました。国の支配者と宗教の指導者たちは悪い羊飼いのように自分の責任を果たさなかったので、大勢の民がバビロンに追放されていました。そこでエレミヤは「無責任者たちの時が終わった」と告げます。神は良い牧者、優秀な羊飼いを通してもう一度、ご自分の民を集めるという神の約束をエレミヤは預言しました。


この預言を受け止めたイスラエルの民は、いく世紀にもわたって神が遣わす「イスラエルの牧者」を待ち望みました。この「メシア」の羊飼いこそが、強い力と正義をもって、敵を追い出し、平和と豊かさのある社会へすべての人を導くからです。イエスの時代には、イスラエルの民はこのようなメシアを想像していました。ところが、イエスは イスラエルの民の期待に反して弱さと柔和を示しながら、違ったやり方で自分の羊飼いとしての使命を果たしました。

 羊の群れが羊飼いに従うように、「多くの人々はすべての町からそこへ(イエスの許へ)一斉に駆けつけた」(参照:マルコ6,33)とマルコは書きました。すでにカファルナウムの人々は「イエスが留まっていた家の戸口の辺りまですきまもないほどに大勢が集まっていました」(参照:マルコ2,2)。また、イエスは群衆に押し寄せられることがないように、船に乗って、離れたところから群衆を教えました(参照:ルカ 5,1-3)。さらに、イエスも、弟子たちも群衆のせいで「食事をする暇もなかった」(参照:マルコ:3,20 6,31)ことをマルコは続けて二回書きました。今日の福音の箇所では、群衆のためにイエスと弟子たち休むことができませんでした。ずっとそばに集まって来るこの群衆にイエスは深い憐れみを感じ、長く皆を教えました。ご存じのように長い説教は聞く人々を疲れさせ、疲労させます。しかしイエスの教えはその逆でした熱心に聞く人々は力づけられ、もっと色々と聞きたいと思いました。イエスは人々を解散させて、離れようとしても、群集は走って一斉に駆けつけ、イエスより先に反対の岸に着いていました。


時々私たちも「飼い主のいない羊のよう」に、自分が孤独に陥っていると感じていると思います。その状況の中にいて、私たちを助け、力づけ、慰め、導かれるために私たちはイエスの現存を強く望むに違いありません。そのような、私たちを見てイエスは、昔のように深い憐れみを感じます。そういう訳で、イエスは世の終わりまで私たちの直ぐ傍に留まります。今も、イエスは色々なことを教えています。聖書全体はイエスの教えを伝えます。それを自分のものにするまで、私たちは何回も何回も読まなければなりません。イエスの教えは体と魂を養う豊かな食物です。マルコの福音によれば、イエスに従った群集は、三日間何も食べずに彼の教えを聞きました(参照:マルコ8,1-2)。 この証しは、神の言葉が人を養う証拠です。

 今日では、イエスを見つけるために走ったり追いかけたりする必要はありません。イエスは、信仰に開かれた私たちの心の中に見つけることが出来ます。また、聖書と教会の秘跡の中にもイエスを見つけることが出来ます。私たちの助けや慰め、あるいは友の言葉や単純な微笑みの中などの隣人の内にイエスを見つけることが出来ます。イエスを見つける人は、勿論イエスの平和も見つけます。この平和についてエフェソの教会の中で聖パウロが話しました。イエスはよい牧者として、「御自分の平和の内に、遠く離れている人々も、近くにいる人々も」集めようとします。ですから、神に感謝しながらキリストの平和がいつも私たちに与えられるように一緒に祈りましょう。また、互いに主の平和のうちに交わりましょう。アーメン。

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       年間第17主日  B 年 2021725日   グイノ・ジェラール神父

          2列王記 4,42-44     エフェソ 4,1-6      ヨハネ 6,1-15

 「この人たちに与えて食べさせなさい」と預言者エリシャは命令しました。また、イエスは自分のすぐ傍に集まっている群集をどのようにして満腹させようかと考えていました。食べることは避けることのできない人間に必要な本性です。生まれたばかりの赤ちゃんも、自分を養い生きるためにどうしても食べなければなりません。

 イエスも預言者エリシャも、数えきれない人を養うためにたった一人の人の助けを受けました。見知らぬ人は「初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新しい穀物」を預言者エリシャに与えました。ある少年はイエスに「大麦のパン五つと魚二匹」とを捧げました。この見知らぬ二人は、神に遣わされた人を信頼して、持っていたものを分かち合ったので、すべての人は食べて満腹になりました。そして残り物も十分ありました。

 私たちは「主の祈り」を唱える時、神が「日ごとの糧」を与えてくださるように祈っています。この願いは自分たちが持っているものを、誰か他の人と分かち合うように私たちを誘っています。なぜなら、私たちの必要性に効果的に答えるために、神は私たちの協力を要求されるからです。私たちの努力を通して、神は私たちの世話をなさるのです。「今日も与えたまえ。神よ、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます」(参照:詩編145,15-16)と、先ほど私たちは詩編の言葉を借りて歌いました。私たちができる物事で、神はいつも私たちの考えでは無理な業を行います。私たちが欠けていることへの恐れに対して、神は力を示して私たちを守ります。

 ミサ、私たちが献金の形で分かち合うものは、聖変化の時に私たちを養い、私たちの飢えを満たす命のパンに変化されます。確かに、私たちが与え、分かち合う物事、私たちを神の神秘に引き寄せるのです。この事実について、度々考えること、そして神に感謝することは大切です。

 イエスはいつも群衆のこと心配しています。飢えている大勢の人を見て、イエスの心はひどく痛みます。イエスに倣って、非人間的な状況に置かれ必要なものがない人の苦難について、私たちが敏感になる必要性があると思います。あらゆる面で全人類を救いたい神の計画に、自分自身の分かち合いの行動を組み合わせることを学ぶことが必要です。

 与えること、受けることと分かち合うこと、この行いは人間の人生を以前より美しく、豊かさに溢れるものに変化させます。そういう理由で、私たちの命が永遠に美しく、豊かさに溢れるように、イエスはご自身のすべてを私たちに与えようとしました。「みな、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体です」と。兄弟姉妹の皆様、出来るだけこの神秘を黙想し、それに完全に生きるように努めましょう。アーメン。

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     年間第18主日B年   202181    グイノ・ジェラール神父

     出エジプト16,2-412-15  エフェソ4,1720-24  ヨハネ6,24-35

 今日の福音を聞いて皆さんはどのように思われるか分かりませんが、私は少し戸惑っています。というのは、イエスを追いかけて走って来た人々に対してどうして咎めるような口調で話をするのでしょうか。前日に、イエスの教えを聞くために従った群集に対して深い憐れみを示して彼らを養いました。今、この群集が来た理由は食べるためではなくイエスの教えを受け止めるためでした。しかしイエスは「ただで食べるために彼らが自分を追いかけて来た」と言って、群衆を厳しく咎めています。一体この態度はどういう意味なのでしょうか。

 ヨハネの福音によると、イエスは人々を普通のレベルからもっと上のレベルへ導くためにしばしば人々を当惑させます。夜に訪れたニコデモにイエスは「思いのままに吹く風」(参照:ヨハネ3,8)の例えで聖霊の役割について語り説明しました。また、サマリアの女に水を飲ませて欲しいと願うイエスは、彼女に自分自身が「永遠の活きた水」(参照:ヨハネ4,10)であることを啓示しました。イエスの話を聞いた人々は、きっと当惑したでしょう。今日の福音の個所で、群集が永遠に養うパンを捜し求めるように誘いました。「天から降って、永遠に人を養うパン」と比べたら、前日に群集が食べたパンは 比べものにならないほど質素な物です。

 しかし、咎められた群集はイエスに大切な質問をしました。彼らは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(参照:マタイ4,4
ということを知っていましたので、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。この人々は善意をもって、天から降るパンを受けるために何かをしなければならないことを理解していました。


 
それについてイエスは即座に、「大切なことは神が遣わされた自分を信じることだ」と教えました。ご自分が「神のみ言葉」なので、キリストから直接に話を聞いた時代の人々にとっても、今現在この場所でキリストから伝えられた言葉を聞いている私たちにとっても信じることは簡単ではありません。イエスこそが私たちの飢えを完全に満たす命のパンであることを十分に信じているでしょうか。キリストのことばが永遠の命の泉であることを信じるならば、私たちはどうして毎日、聖書を開いて命の言葉で日常生活を潤していないでしょうか。どうして私たちは一緒に集まって、イエスの言われた言葉への理解や発見を分かち合うことを恐れているでしょうか。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」これこそ、キリスト者の大切な務めです。神の言葉を受け、心に留め、思い巡らすことがイエスの勧めるキリスト者の働きです。私たちは、イエスは「道であり、真理であり、命である」(参照:ヨハネ14,6)ことを信じています。ですから、地上での私たちの生き方が将来(死後)永遠の命を受けるようイエスをもっと深く知ることや愛することに対して努力しましょう。日常生活にイエスの言葉を取り入れ、尊敬をもってイエスの引き渡された体をいただくことによって、私たちは「神の業を行う」ことができます。ですから、信仰の絆を強めながら、一緒に「神の国と神の義を探し求めましょう。そうすれば、必要なものはみな加えて与えられます」(参照:マタイ6,33)。アーメン。

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  年間第19主日  B年  202188    グイノ・ジェラール神父

   列王記上 19, 4-8     エフェソ 4, 305,2      ヨハネ 6, 41-51

 どのように神が預言者エリヤの世話をするかを第一朗読が聞かせました。預言者エリヤは落胆して、希望を失いました。神は自分の預言者を助けるために天使を遣わして彼食べるように誘います。それはエリヤが生き続け、力づけられ、また希望を取り戻すためです。これはとても大切なことです。預言者エリヤは、二回続けて食べ、飲むことが必要でした。

 この聖書の個所で気が付いて欲しいことは、神は一度も預言者が抱いた自殺の考えを咎めませんでした。神はエリヤに対して、「このような考えを持つな」とか「嘆き、悲しむことをやめよ」などと言いませんでした。神は絶望で満たされたエリヤをありのままに歓迎し、彼の面倒を見ながら疲れを癒し力づけて、もう一度旅を続けるように促しました。


 エフェソの教会への手紙で、聖パウロは神を真似る態度を取りました。自分たちの言葉と行いを通して神を見分ける方法を聖パウロは教えています。すべてにおいて神の働きと業を人々に見分けさせること、これこそ教会の使命です。勿論、ここで私たちの努力は大切です。なぜなら、私たちは神の顔であり、キリストの体であり、聖霊の神殿であるからです。聖パウロが勧めている通り、自分の生き方から「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てる」ことが肝心です。

 それを簡単に実現できる秘訣をイエスは教えています。それは、「天から降って来た」彼の体を食べることです。預言者エリヤと同じように私たちも神が与えようとする糧を食べなければなりません。それは一回、あるいは二回だけではなく、過ぎ去る日ごと、即ち毎日です。簡単に絶望している私たちにイエスはご自身を糧として与えることで、私たちに希望を目覚めさせます。命の主であるイエスは、私たちを生かすためにご自身を与えることで私たちの世話をします。それをよく理解していた聖パウロは宣言しました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照:ガラテ220)と。ですから、文句や苦情ばかり言うよりも、この大切なことを真面目に考えたらどうでしょう。

 ミサの時に「私たちの日ごとの糧を」神に願うことによって、「神が私たちを養い、生かし、世話をすること」を私たちは声を合わせて認めているのです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(参照:ローマ 8,31)と聖パウロは言いました。それは、私たちが神に対する揺るぎない信頼を持つためです。

 今日もまた、「天使のパンで、力ある方のパン」(参照:詩編78,25)で養われるでしょう。これによって私たちが平和と信頼の内に、神への道を歩き続けることができますように。キリストの体で養われた私たちは、遅かれ早かれいつか永遠の励ましと安らぎである聖霊の息吹を通して神を発見する保証を受けています。しかし、待たずに、神の顔とキリストの体であり、聖霊の神殿である私たちは、絶望と落胆に陥った人々に生きる助けや生かす力、また希望を取り戻すことができる信頼や慰め、励ましを与えましょう。神に倣って全人類の世話をするために 私たちの才能とすべての力を尽くしましょう。アーメン。
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      年間第21主日  B年  2021822    グイノ・ジェラール神父

            ヨシュア 24,1-215-18     エフェソ 5,21-32     ヨハネ6,60-69

 私たちもしばしば神のみ言葉を聞いている時や読む時に、イエスを囲んでいる群集のように反応します。「何を言われているかは全く分かりません。実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」などと。そのような時、次のどの態度を選ぶでしょうか。開いていた聖書の本をバタンと閉じてしまう人、あるいは話を聞いている振りをする人、このような態度を示す人でしょうか、あるいはこういう態度とは違って、心の耳を大きく開いて、理解出来なかった聖書の個所をもう一度ゆっくり読み直して少しでも理解しようと努力する人でしょうか。あなたはどの態度を選びますか。

 イエスは永遠のみ言葉を持っておられることを私たちは信じ、また知っています。聖ペトロと共に私たちもそれを宣言します。そして、イエスのそばに留まって、一緒に一歩ずつ歩まなければなりません。私たちも、やはり、弟子たちと同様に神のみ言葉の光を受けながら、信仰の暗闇の内を歩き続けることを学びます。

 弟子たちの信仰は、私たちの信仰となりました。イエスが教えたように、信仰は神の賜物です。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」からです。聖霊だけが神への道を教えています。しかし、それは決して、ある人が選ばれ、他の人は選ばれていないということを意味しているのではありません。限りのない愛をもって、神はすべての人に信仰の賜物を与えることによって、彼らを呼び集めようとします


 確かにすべての人が信じる可能性を受けました。しかし、一人ひとりは信仰を自由に選びます。信仰は論理や推論の領域ではありません。イエスに従って歩むように 信仰は人を動かすのです。イエスはそのことを忠告し促しました。自分が選んだ弟子たちの中で一人の弟子は終わりまで一緒に歩くことを拒んで、裏切り者になることをイエスは初めから知っていました。しかし人の選びの選択に対して、イエスはその人の自由を尊重します。「あなたがたも離れて行きたいか、どうぞご自由に、私は反対しません」とイエスは、はっきり言います。

 イエスと共に留まることを決めた人々が、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むように招かれています。これはミサの時の聖体拝領への招きだけではなく、むしろキリストと親密に一致する招きです。キリスト者は聖パウロと共に「わたしにとって、生きるとはキリストです」(参照:フィリピ 1,21)と自信をもって言える人です。「信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(参照:ヨハネ3,36)と記されています。信じる者は生きている、しかし信じない者は既に死んだようなであり、ゾンビの様なものです。

 兄弟姉妹の皆さん、信仰に目覚めて、ゾンビのような生活を拒みましょう。イエスに終わりまで従うという自分の選びの責任を果たしましょう。私たちはすべてを理解できないので聖霊の光を神に願うことが必要です。イエスは約束しました「聖霊が来ると、私たちを導いて真理をことごとく悟らせる」(参照:ヨハネ16,13)と。最後に私たちの信仰が愛徳と分かち合いで光り輝くものとなるように、お互いのために祈りましょう。アーメン。
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         年間第22主日  B   2021829  グイノ・ジェラール神父

        申命記4,1-26-8  ヤコブ1,17-18,21-22,27  マルコ7,1-8,14-15,21-23

  ナザレの人々は憤慨し、ショックを受けました。イエスは彼らが考えていた人と違っていたからです。イエスが安息日の掟を守らないので、エルサレムの祭司たちは、憤慨し躓き、彼を殺そうと決めました。イエスが昔の人の言い伝えを無視するので、律法学者たちやファリサイ派の人々は憤慨し、驚きました。新約聖書ではイエスはしばしば批判され、見張られて巧妙な罠の前立たされますが、いつも上手に知恵をもって避けています。

 イエスは今まで言い伝えられている教えを無茶苦茶にするために来たのではありません。むしろ悪い行いとされている事と善い行いとされている事ついて、間違った考えをすために来ました。イエスにとっては外面的なしるしや慣習が、人の内面的な真実と事実を現す時にこそ値打ちがあるのです。それ無しには、すべては偽善や見せかけに等しいものです。昔の人の言い伝えは、律法学者たちやファリサイ派の人々に偽りの安を与えるだけのものです。そういう訳で、彼らはいつもそれを自分たちの避難所としているのです。イエスの思いは、昔の人の言い伝えに対する彼らの心を真実なものに変えたいのです。律法学者たちとファリサイ派の人々の悪い癖と言えば、人々の目の前で自分たちが清く、非の打ちどころのない人だと見せろことなのです。

 神は言いました「聖なる者でありなさい。主であるわたしは聖なる者です」(参照:レビ記19,2)と。神の言葉に対する間違った解釈のせいで、神の勧めが洗い清めると言う「清潔不潔の掟」になってしまいました。神の聖なる民になるために、自分を洗うことが必要でした。ものをると手を洗い、異邦人や病気の人と出会えば体を洗い、市場から帰った時あるいは食べる前に手と足を洗わなければなりません。その目的は神に近い者となるためです。しかし、それは人々に白か黒かの単純な判断を与える危険性があり、イエスはそこに正しい行い方を教えようとしました。手の清さではなく、心と考えの清さによって人が神に近い者となるのです。


 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」とイエスは断言しました。世界中の多くの善良なキリスト者たちが、毎週のミサに忠実に参加するから自分たちに明確な良心を与えるのです。私たちの目をよく開くために、ミサ祭儀の初めにいつも自分が罪びとだと公に認めながら、信仰の兄弟姉妹や天使と聖人の祈りの助けを願います。私たちは簡単に自分を正当化しますが、ただ神けが人を正しくします。 神の言葉によってまたキリストの御体と御血をいただくことによって、神は人を正しい者とします。そこで今日、聖ヤコブは良い勧めを与えました。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と。つまり神のみ言葉が私たちを聖とするのです。

 神が聖であるように私たちも聖なる者になるために、絶えず神が私たちの心を変え、聖霊で満たすように願わなければなりません。今日のイエスとの出会いによって、私たちの考え方が新たにされ、皆がイエス・キリストの内に安全性と避難所、そして聖とする恵みを見つけることが出来ますように。アーメン。

                                                 
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